コロナ禍のスポーツ

高校編

前橋商業バレーボール部 #2

父が息子に伝えた

「ありがとう」の言葉

4年連続出場を目指した今年の春高バレー。父と子が、監督とキャプテンとして臨む最後の全国大会になるはずだった。残念ながら全国への目標は達成できなかったものの、コロナ禍で親子の絆はさらに深まったようだ。前橋商業バレーボール部の小林潤(こばやし・じゅん)監督と透弥(とうや)キャプテンの親子のストーリー。

文・写真/EIKAN GUNMA編集部

小林潤監督
小林透弥キャプテン

「親ばかじゃないですけど、『こいつ、すごいな』って思いましたね」

 前橋商業バレーボール部の小林潤監督がこう称えるのは、息子であり、キャプテンとして部をまとめた小林透弥(とうや)だ。

 バレーボールをしている父に憧れた透弥が幼稚園のときに書いた将来の夢は、「お父さんのいる学校に行って、一緒に全国に出る」こと。

 小学校ではバレーボールができる環境がなかったため、透弥はサッカーやバスケットボールのチームに入り、体力づくりに励んだ。バレーボールを始めたのは、中学になってからだ。幼稚園のときの夢を叶えるため、父が教員を務める前橋商業に迷わず進学。1学年上の代が部を引退した新チームではキャプテンを務めた。

 「自分の代には、チームを引っ張る人間がいなくて、試合に出ているメンバーの中だったら、『俺』みたいな消去法で決まりました。先輩から代替わりするときの下級生大会でキャプテンをした流れで、そのまんまでした」

 あっけらかんとキャプテン就任の経緯について答える姿は、元気で明るいチームの雰囲気そのままだ。

 前橋商業バレーボール部は、2018年から3年連続で春高バレーに出場していた。透弥は、昨年1月の2年生のときに全国大会に出場し、幼稚園のときの全国に父と一緒に出る夢を叶えていた。

小林監督が「このチームは前年からのメンバーが残っていたので、仕上がれば全国で戦える」と手ごたえを感じていたように、透弥も父と一緒に出る最後の全国大会出場に胸を膨らませていた。だが、昨年11月7日の県予選の決勝戦でフルセットの末に伊勢崎に敗れ、4年連続での出場は叶わなかった。

 「敗戦が決まったとき、『本当に負けたのかな』と実感が湧かなかったんです。勝たなきゃいけないプレッシャーもありましたが、勝てる気しかしなかったんです」と、透弥はすぐには現実を受け入れられなかった。

 新型コロナウイルス感染拡大の影響で、昨年1月に行われた新人戦以降、高校総体県予選、関東大会県予選などの地方大会も含め、軒並み大会が中止となり、3月には部活動も停止に追い込まれた。ようやく部活が再開できたのは6月になってから。7月には県内の学校との対外試合が解禁となり、県外の学校との対外試合は8月になってから認められた。例年、春高バレーの県予選突破に向け、合宿をしながら県外の強豪校との練習試合を多く組んできたが、コロナ禍で合宿ができず、例年ならやらない県内の高校と練習試合をしたり、近県の強豪校と何度も練習試合を繰り返したりするしかなかった。

 「いつもは高いレベルで(県予選に向け)調整してきたのですが、今回は県外の強豪校との練習試合が少なかったため、チームのレベルが少し落ちていたのだと思います」と、透弥はコロナの影響を感じていた。

 県予選の決勝戦に敗れた日、小林監督は透弥に感謝の気持ちをLINEで送った。

 「バレーボールを始めてくれて、父親が監督をする前商に来てくれて、全国に出られるようなチームの中で試合にも出られるようになってくれて本当に感謝しかない。最後はもう一回、一緒に春高に行きたかったけど、それは叶わなかったな。でも今年(2020年1月)の春高は、大勢の応援の中で優勝した東山(京都)と試合ができたことはすごくいい思い出になっている。それを思えば最高の思いをさせてもらった。今までありがとう」

 父親の気持ちに対し、透弥からはこんな返事が返ってきた。

 「周りは『親孝行息子だね』って言うけれど、親孝行をしたつもりは俺にはない。純粋にこの人のもとでバレーボールをしたいから前商を選んだだけだ」と。

 そして、冒頭に小林監督が「こいつすごいな」と思った言葉が、最後に書かれていた。

 「最後にただ、後輩たちをまた春高に連れて行ってくれ。これは前キャプテンからのお願い」

 今年4月、透弥は大学に進学する。もちろん大学でもバレーボールを続ける予定だ。しかし、卒業後は父親と同じ指導者の道へ進むことを考えていないという。

 「なんか、教える側ではないんですよね。自分がバレーボールを楽しみたい。大学を卒業したらクラブチームに入ってバレーボールをやりたいですね」

 バレーボールを通じた親子の絆は、新たな道へと歩を進めた。