絶望の淵から得た  勇気と力と輝く将来

車椅子ソフトボール日本代表

大谷 颯


車椅子ソフトボール日本代表として活躍する大谷颯。プロ野球選手を夢見ながら、突然襲った病魔のために車椅子生活を余儀なくされたが、それでも前を向き、新たな夢をつかんだ。夢も希望も見いだせず苦しんでいる人たちにぜひ読んでいただきたいと思い、2019年12月に発表した記事を改めて紹介する。


車椅子ソフトボール日本代表として活躍する大谷颯

中学時代、全国大会で活躍した大谷颯に病が襲った。原因不明の脊髄梗塞だった。絶望から自分を救ってくれたのは、高校時代の恩師、そして車椅子ソフトという競技だった。障害者と健常者が一緒になって試合を行う車椅子ソフトボール。大谷は「パラ五輪で金」という大きな夢を抱き、力強く前進している。

文/樫本ゆき 写真/春木睦子 編集/星野志保

 フルスイングで打ったボールが、雲ひとつない青空に向かって高く高く飛んでいく――。秋晴れの会場に笑い声や明るい歓声が響きわたった。
 10月5、6日。首都高速道路を臨み、高層ビルに囲まれた東京・有明の広域公園で、国内最大の車椅子ソフトの大会「中外製薬2019東京国際車椅子ソフトボール大会」が行われた。
 「アメリカ代表は強いですよ。パワーが違います。今回ガーナ代表が参加したところは大きな1歩だと思います。もっともっと車椅子ソフトが世界に広がっていってほしいですね」。2028年パラリンピック正式種目を目指す車椅子ソフトの日本代表・大谷颯(群馬シャドウクレインズ所属)が期待を込めて話した。胸には「JAPAN」の文字。全国約20チームの中からセレクションで選ばれた15選手だけがこのユニホームを着ることができる。「JAPANは結果が求められる。プレッシャーが全く違います」。今年8月に米・カンザスシティで行われた「ワールドシリーズ」に出場し、見事、初優勝を収めた。パワーのアメリカに対し、日本は堅い守備で守り勝ったという。この大会でも再び決勝でアメリカと対戦。接戦の末、8-9で逆転負けしたが、試合後は抱き合って健闘を称えて友情を育んだ。
 国内外9チーム135人が参加したこの大会。選手を見ると片足がない人がいれば、両足がない人もいる。両足がそろっていても動かせない人や手に障害がある人もいる。障害の理由や重度はさまざまだ。大谷は言う。「形は違えど、同じ野球。みんな障害が違うから、自分ができるプレースタイルを追い求める。団体競技なんだけど、個人競技のようなチャレンジする要素もあって楽しいし、失敗すると本当に悔しい。そして健常者も一緒にプレーできる。最高に奥が深くてはまっています」。車椅子ソフトに打ち込む向上心が、力強く前へ進む、生きる原動力になっている。

東京国際車椅子ソフトボール大会の最中、笑顔で撮影に応じる大谷

中3の冬。原因不明の脊髄梗塞を発症

 自分は生きているのか、死んでいるのか。それすらもわからないほどの絶望だった。15歳の冬のことだ。母・貴代さんは当時を振り返る。「放っておいたら、颯は病院の窓から飛び出して死んでしまうのではないか。そう思うほどでした……」
 事故は2011年2月に起こった。中学野球の選手だった大谷は部活を引退して、地域のグラウンドで高校野球に向けた練習を行っていた。いつも通り準備体操をしていたときだ。2人一組の倒立をしたとき、背中が「ピリッ」とした。電流が走るような衝撃を感じた。大谷はそのまましゃがんで様子をみると、足の力が抜けていく感じを覚えた。力が入らない。練習は中止して、引率の保護者におぶってもらい病院に向かった。このとき下半身の感覚がなく、動かなくなっているのがわかった。
 「ギックリ腰みたいなものかな」。最初はそのくらいに軽く考えていた。翌日、県外の大きな病院に移され精密検査した結果、衝撃的な病名を言い渡される。「脊髄梗塞(せきずいこうそく)」。しかも原因は不明。一時的に血管に血が詰まって神経が麻痺しているだけかもしれない、と希望を抱いたが、2日経っても、3日経っても、下半身の感覚は戻らなかった。
 「このときの心境を全く覚えてなくて」。大谷は言う。パニック状態だったからだろう。貴代さんには「野球ができなくなったら死にたい」、そう言っていたという。

東京国際車椅子ソフトボール大会でヒットを打つ大谷。強い打球が魅力 

絶望の一言。救いとなった安倍先生との出会い

 「高校野球で活躍して甲子園に出て、プロ野球選手になるぞ」。野球少年なら誰もが一度は描く夢を、大谷も同じように抱いていた。小3のときに「伊勢崎・三郷シルバーイーグルス」に入団。強肩強打の4番捕手として活躍し、中学は強豪校「伊勢崎三中野球部」に入部した。名物「十二山トレーニング」など県内屈指の練習量に耐えて心と身体を鍛えていった。キャプテンを任された中2秋は思うようにチームが勝てず苦しみ、春も敗退。周囲からは「三中史上最弱」と言われた。そんな中でも心を折らさずチームワークを磨いた結果、最後の夏は「全中」と呼ばれる中学軟式の全国大会に出場。約9000校の頂点を決める大会で全国ベスト8入りを果たした。もちろん創部初の快挙。大谷の夢は大きく広がった。そんな矢先に起こった、信じられない事故だった。
 試練は続いた。失意の貴代さんは医師がある絶望的な言葉を宣告される。
 「お母さん、この子はもう一生障害者です。何かをさせようなんて思ってはだめですよ」。頭をハンマーで殴られたような気持になった。高校受験も諦めるようにと言われた。息子になんて話そう。言葉が見つからない。時間だけが過ぎていった。
 わずかな光が見えたのは、翌年に群馬県内の病院に転院したときだった。そこの医師たちは「何をしてもいいんだよ」と大谷に声をかけた。希望が湧いた。入試を受け、志望校の県立伊勢崎高校に合格。高1の8月まで入院生活が続いたが、その間、担任の安倍秀勝先生が定期的に病院を訪れ、大谷を鼓舞し続けてくれたことが大きかった。4カ月遅れで高校生活をスタートさせるとき、貴代さんが「車椅子なので、学校でご迷惑をおかけすると思います、すみません」と言うと、安倍先生は真っすぐな目でこう言ってくれた。
 「お母さん、この子は他の生徒と同じ。普通の子なんですよ」
 貴代さんの目に、涙があふれた。
 大谷も感謝を口にする。
 「復帰してすぐのテストで0点を取ったんです。全く勉強してなかったから当たり前と言えば当たり前なんですよね。そしたらその答案紙を安部先生が目の前でビリビリに破いたんです。『お前の力はこんなもんじゃない。俺はわかっているからな』と。『進路は最低でも群大だぞ』とも言われました。うれしかったですね……」
 「何もするな」、「寝てればいい」「安静にしてなさい」。一時はそう言われた一人の人間が、ある日別の人から「普通なんだ」、「お前はもっとできる」と本気で言われたら、どんなに勇気が湧くだろうか。他の生徒も安倍先生が事情を話してくれたことで、「車椅子の友達」として受け入れてくれた。3年間すべての学校行事に参加でき、沖縄への修学旅行も保護者の同伴なしで行くことができた。そして最後は、群馬大学社会情報学部に首席で合格。現在は、群馬県庁総務部に勤務している。
 自分を平等に受け入れ、新たな目標に向かわせてくれた安倍先生との出会いも、自分を前に進めさせてくれる大きなきっかけだった。

同じ障がい2の選手、アメリカ代表のテリー・ボイド選手と記念撮影。ユニフォームを交換し、親交を深めた    (撮影/樫本ゆき)

車椅子の子たちの見本になりたい

 大谷にとっての前進力とは何か? と聞くと真っすぐな目で即答した。
 「自分が好きなことをやれている。そのことだけですね」。「好き」の根底にあるのはもちろん野球だ。そして、車椅子ソフトの仲間たちだ。健常者選手として活躍するチームメートの細野結花は大谷について、「片手で打っているのに打球のはやさがすごい。車椅子の操作もどんどんうまくなって、その成長度の大きさにも驚いています」と目を丸くする。「車椅子生活になったとき、バスケやテニスを勧められたんです。でも自分がときめかないものはやりたくなかった。やっぱり、野球なんですよね。次の目標は、パラリンピック正式種目になった車椅子ソフトボールで、金メダルを取ることです」
 目標があれば人は輝ける。筆者は14歳のときから大谷を取材してきたが、いまの大谷颯が一番好きだ。最近は会場で車椅子の子を持つ親から、「生活はどうしているんですか?」と相談を受けるそうだ。そんなときは自分の経験を嘘偽りなく話し、最後にこう言うそうだ。
 「普通に何でもできますよ。仕事もスポーツも」って。「自分のときは何を目指せばいいかわからなかった。だから自分は子どもたちの目標になりたいんです。そのためにも金メダル! 究極の目標ですね」

<了>

■Profile
大谷 颯(おおたに・はやて)
1995年1月23日生まれ。群馬県伊勢崎市出身。小3で野球を始め、伊勢崎三中で全国大会出場(8強)。群馬大4年の時に知人の勧めで車椅子ソフトを始め、2018年日本代表入り(持ち点2)。今年8月のワールドシリーズで初優勝を収めた。群馬県庁勤務。

■車椅子ソフトボールとは
競技用車椅子に乗りながら、専用のソフトボールを使って行う10人制のベールボール型競技。約40年前にアメリカで始まり、日本では2013年に協会が発足。障害の重さによってクラス分けがあり、合計の持ち点21以内でチーム編成する。健常者、女性も一緒に参加できる。NPBでは埼玉西武ライオンズが「A.S.ライオンズ」を設立し支援。日本開催の2020年世界大会、2026年アジアパラリンピックの参加、2028年ロサンゼルスパラリンピックの正式種目を目指している。