故郷の群馬を優勝に導く救世主

群馬クレインサンダーズ
小淵 雅

2021年6月13日に、2013-14シーズンから群馬クレインサンダーズに在籍した大泉町出身の小淵雅の引退が正式に発表された。小淵の功績をたたえるため、2013年7月16日、サンダーズに移籍してきたばかりの彼にインタビューした記事を紹介しよう。2013年8月掲載記事


昨季bjリーグに参入したチームがようやく念願の選手獲得に成功した。群馬県大泉町出身の小淵雅。昨季、最下位の甘んじたチームの上位進出のピースになる。「恥ずかしい試合は見せられない」と、シーズン前に意気込みを語ってくれた。
取材/渡辺淳二 撮影/星野志保

故郷・群馬に戻ってきてすぐのインタビュー(2013年7月16日、伊勢崎市内の球団事務所)

下手な試合は見せられない

 自らが生まれ育った群馬で今シーズンからプレーすることになった小淵雅が、大きく息を吸い込むようにしてこう切り出した。
「車のドアをあけて降りた時、なつかしい匂いを感じました。一年に一度は群馬に帰って来ていたのでその度に、昔からかいでいる匂いだな、って感じていたんですよ(笑)」
 束の間のオフで帰省していたのとは違い、今回は12年ぶりに群馬に住む。上位進出を狙うクレインサンダーズの救世主として期待が向けられる分、今回ばかりは身が引き締まる思いだ。
「楽しみではありますが、いい意味でのプレッシャーがあります。今まで以上に負けたくないし、負けられない。今までの移籍とはやはり違います」
 専修大を卒業した後、名古屋へ。名古屋から沖縄へと飛び、沖縄から大阪へと移籍を繰り返してきた。知らない土地でプレーする難しさとはまた違い、群馬では「下手な試合は見せられない」という思いが先行する。高校までお世話になった方々、あるいは知人が身近にいる環境となっただけに、成長した姿を見せたいという欲求がわき上がって当然であろう。それは「群馬への愛着」という言葉にも置き換えられそうだ。
「僕がJBL(現在NBL)でプレーしている時も群馬での試合がなく残念に感じていました。それだけにクレインサンダーズができると知った時、群馬県全体がバスケットで盛り上がってくれたらと思っていたんです。チームができてよかったし、当然、僕も行きたいという思いもありました。でも縁がなかった…。昨シーズンは大阪(エヴェッサ)でプレーし自分のことで精一杯でしたが、クレインサンダーズがいい方向に進んで欲しいと願っていたんですよ」
 前所属の大阪で2シーズン、指導してもらったのが群馬のライアン・ブラックウェルヘッドコーチだ。小淵の中で彼の存在が今回の移籍をスムーズにさせたことは想像に難くないが、小淵はライアンのバスケットをどのように感じていたのだろうか。
「ライアンは、選手が得意とするプレーや発揮したいプレーを尊重してくれます。プレーを縛らずに、選手を成長させようとしてくれるんです。でも時には、難しさを感じることもありました。縛られないだけにやっていて楽しいのですが、日本人って、自由にプレーするように言われると何をしていいか戸惑ってしまうことがある。自由にプレーしていい時にどれだけ臨機応変にプレーできるかが自分の成長につながるのです」
 再び、ライアンの下でプレーすることになった自身の役割とは――。
「まずは得点を狙いに行くのが僕のスタイル。最初からパスを出そうとしている選手は相手にとって怖くないはずです。だから自分が攻めて、チームメイトをマークするディフェンスを引き付けられたらパスをさばく。いつ自分を出して、いつ自分をしまうのか。そのタイミングを早く見つけないといけませんね」

大泉町で過ごした日々

 小淵がバスケットを始めたのは小学3年生の時。三つ年上の兄が漫画『スラムダンク(集英社)』にはまったのがきっかけだ。幼少時は「兄の後ろにくっ付いて遊んでいた」と、当時を思い起こして笑う。
「自分たちで線を引いてコートを作り、1対1をしていました…。覚えているのは、『線を踏んだ!』『いや、踏んでない!』とか言い合って、ケンカをしたことだけ(笑)。夜遅くまで、取っ組み合いをしていました。でもうまくなかったし、強いチームでもなかった。中学2年まではチームメイトとスタメンで出るのを競っていた、その程度のレベルです」
 そう言って微笑む小淵だが、中学生の時に群馬県選抜としてジュニアオールスターに出場。春季大会では県で優勝を遂げるほどのチームに所属している。そして、バスケットの名門・秋田県立能代工業高校の戦い方を追求するほど志しは高かった。
「当時、能代のOBが監督を務めていた太田工業高校に進学したのも、能代のスタイルに憧れていたからです。今となってはいい思い出ですが、練習がとにかくきつかった。入学してすぐやめたい、と思ってしまったほどです(苦笑)。でもあの練習があったから、きつくてもできないことはない、と思えるようになった。何事に対しても『無理だ』とは思わなくなりました」
 そこから群馬を離れ、全国のツワ者が集まる関東大学1部リーグに所属する専修大へとステップアップする。いわば刺激的な日々の始まりだった。というのも大学の寮生活で同室となった先輩が今やbjリーグを代表するスーパーガードなのだから。
「僕が大学に入学した時、4年生の康平さん(青木康平・東京サンレーヴス)が同室でした。正直に言うと最初はこわかったのですが、選手としても人間としても尊敬できる存在でもありました。コート上でもゆっくりとプレーしていると思いきや、一瞬にして相手をやっつける緩急がすごい。何より自身がどんな苦しい状況に置かれてもブレないんです」
 その大先輩を見ながら成長した小淵も大学2年、3年でコートに立ち、タイトルを手にした。だが、今なお強く心に残っているのは、苦境に立たされた大学4年生の時だと言う。
「前年は1部リーグで好成績を収めたチームが、入れ替え戦を覚悟するほど低迷していました。その苦しい状況の中で、『どうしたらいいのか』最上級生で話し合い、みんなでまとまった時の感覚が忘れられないんです。そこから1部リーグに残留し、その後のインカレ(全国大会)でも4位に食い込めた。苦しんでいたチームが立ち直った時、バスケットをしていてよかったと本当に思えた」
 それと似た感覚をリーグ終盤に感じられたクレインサンダーズ。今シーズンは小淵とともに、それを大きなうねりへと変えたいところだ。

小淵にとってのベース

 学生時代と国内トップレベルのリーグで過ごした日々…。それらに加え、小淵はもう一つ、アメリカで得た経験をも武器として携える。
「大学時代にアメリカで3週間くらい、練習する機会を作ってもらいました。身体能力がすごいことはわかっていても、当たりの強さやハングリー(貪欲)に戦う姿勢は実際に行ってみないとわかりません。それだけにアメリカで挑戦してきた経験を大事にしているんです」
 そうしてJBLで3シーズンプレーした後、再渡米して挑戦を続けた小淵の原点は大学時代にあるのか…。彼が遠いほうに目を向けて言う。
「自分が積極的にシュートを打つ、という意味では高校時代なのかもしれない。打つべきタイミングで打たないと監督に叱られて、ベンチにさげられましたからね(苦笑)」
 では一体、そのシュートはどこから端を発しているのか――。
「バスケットを始めたのがバルセロナオリンピック(1992年)の頃でした。当時のアメリカ代表『ドリームチーム』にいた、クリス・マリンというサウスポー(左利き)のシューターが好きでした。とても美しい軌道でバックスピンがかかり、シュートが決まるとネットがフワっと上がるんです! 何しろ僕が兄と使っていたリングは、大工をしていたおじいちゃんが作った古いもの。ネットが硬くなってしまっていて、リングを通過した後、ボールがネットの中で止まってしまうんです(苦笑) それだけにネットがはね上がるような美しいシュートに憧れていました」
 おじいちゃんをはじめお世話になった方々への恩返しは、クリス・マリンばりのシュートしかない!

<了>

■Profile(掲載当時のもの)
おぶち・まさし
1983年9月12日生まれ、群馬県出身、身長182㎝、大泉北小~大泉北中~太田工業高~専修大~三菱電機ダイヤモンドドルフィンズ(2006-09)~琉球ゴールデンキングス(2009-10)~大阪エヴェッサ(2010-13)。中学時代に群馬県選抜に選ばれ、ジュニアオールスターに出場。高校での厳しい練習を経て、大学時代にはインカレ(全国大会)の他、関東リーグとトーナメントで優勝を経験し、プロバスケット選手となるチャンスを切り開いた。今シーズンから故郷である群馬に移籍し、活躍が期待されているスーパーガードだ。